炭治郎は『鬼滅の刃』で最も謎めいた「空虚な中心」である
炭治郎は『鬼滅の刃』で最も謎めいた「空虚な中心」である

炭治郎は『鬼滅の刃』で最も謎めいた「空虚な中心」である

『鬼滅の刃 無限列車編』で描かれた炭治郎の「無意識領域」を見て、改めて炭治郎の純粋さを感じた人は少なくないだろう。どこまでも続く水面の上に広がる青い空以外、何もない空間。しかし、その「何もなさ」にこそ炭治郎のある種の「狂気」があると、精神科医の斎藤環さんは指摘する。精神科医が見た、『鬼滅の刃』の「もうひとつの物語」とは。

それゆえ他者のトラウマに深く関わろうとする者には、一定の「覚悟」が要求される。何度裏切られてもすべて受け入れる、という覚悟ではない。それでは単なる自暴自棄と区別がつかない。覚悟とは「もしこの一線を越えてしまったら、たとえ被害者であろうと裁く」という覚悟のことだ。ある種の罪は、許されてしまうことが地獄につながる。許さないこと、毅然として裁くことが時に救済となる可能性を、「鬼滅」は極めて説得的に描いている。

ここで重要なことは、鬼殺隊の「柱」もまた、ほとんど全員が――甘露寺蜜璃を除き――鬼による犯罪被害者であるということだ(煉獄杏寿郎と宇髄天元は鬼の被害は受けていないが親からの虐待サバイバーである)。その意味で「鬼滅」とは、「正義の被害者(柱)」が「闇落ちした被害者(鬼)」と戦う物語、でもある

そして留意すべきは、「正義」はしばしばトラウマ的な出自を持つ、ということだ。鬼殺隊の人々が正義の刃を振るうのは、もちろん社会の治安と安全のためではあるのだが、その動機はしばしば怨恨であり、その向かう矛先は鬼であり鬼舞辻無惨だ。その正義は鬼退治の正義であって、その限りにおいて普遍性はない。

「トラウマ的な正義」を持つ柱たち

柱メンバーは悪としての加害には決して手を染めないが、「正義の刃」ならば、いつでもどこでも嬉々として振るうだろう。そこにいささかのためらいもない。彼らの多くが被害者であり、「傷ついた癒し手」(ユング)ならぬ「傷ついた裁き手」であるのだから。そこに炭治郎という「異物」が加わることで、彼らもまた「傷ついた癒し手」に変わっていく。

炭治郎の「狂気」

彼は嘘がつけない(つこうとすると半端ない変顔になる)。絵が描けない。猫や鯉のぼりを描くと異様なモンスターができあがり、歌唱能力はジャイアン並みの音痴。つまり炭治郎は、想像力に問題を抱えている。しかもそのことに自覚(病識)がない

彼の純粋さの表現ともとれるが、この景色を見て筆者は確信した。炭治郎には「想像界」 (※) が欠けている。だから「優しさ」はあるが「共感力」には乏しい。そうでなければ(自分のせいで)傷心の冨岡義勇を、蕎麦の早食い競争に誘ったりはしない。

彼が頑固なのは、正しいことへのこだわりではなく、「正しいこと」以外の可能性が想像できないからだ。彼の「正しさ」は、正義への信念ではない。その内界に棲む「光の小人」が、彼の優しさの象徴だ。光の小人は生得的なホムンクルス(錬金術師が生み出す人造人間)であり、おそらくは遺伝子レベルで継承された資質の擬人化であろう。サイコパス的な「柱」たちが後天的に獲得した「トラウマ的な正義」とはまったく異質の、「優しさという生得的狂気」が炭治郎の武器なのだ。

想像力を補う炭治郎の嗅覚

もし彼が鬼に寄り添い、その境遇を共感的に理解するような人間だったら、とっくに共感性疲労と二次外傷で心が挫滅してしまっていただろう。嗅覚をよすがにしたからこそ彼は疲弊せず、また「鬼の尊厳」を傷つけることもなく、鬼を裁くことができたのである。まさに「記憶なく、欲望なく、理解なく(W.ビオン)」の理想的実践である。

「鬼滅」には驚くほど多くの炭治郎のモノローグが記されているが、にもかかわらず彼の心理は把握できない。決定的なイベントが起こる瞬間、炭治郎の心理がブラックボックスになってしまうからだ。それは黙説法(語らないことで語ること)ではない。むしろ語りすぎることが核心を隠蔽するのである。

炭治郎と無惨は極めて近い存在

そのように考えるなら、炭治郎は極めて空虚な存在である。動物的な存在とすら言えるかもしれない。その意味で炭治郎は、鬼舞辻無惨と極めて近縁の存在ですらあるだろう。そもそも二人とも「キャラとしての両義性(相反する要素をもつこと)」が極めて乏しい。炭治郎はどこまでも優しく真っ直ぐな少年であり、彼のダークサイドは、無惨の力で鬼化した場面でのみ発揮される。ただしそれは、彼の「心の闇」などではなく、資質として、生物としてのダークサイドだ。

そもそも自分を殺しに来た鬼殺隊に挑発的な決め台詞を言うでもなく、「しつこい」「飽き飽きした」「天変地異と思え」とか言って追い返そうとする役人かのような凡庸ぶり。もっとも「脳が5つ、心臓が7つ」あるということだから、個人というよりは「寄生獣」のようなシステム論的存在なのかもしれない。だから無惨が「悪人」ではなく、「永遠の生命をプログラミングされたAI」のようなものと考えるなら、その思想のなさも魅力の欠如も、すぐれて現代的な「悪の凡庸さ」の象徴として納得がいく。

炭治郎をどうとらえるかで「鬼滅」の意義はがらりと変貌する。あくまで少年漫画の王道キャラととらえれば、笑って泣ける王道バトル漫画ともなるだろう。しかし「優しさという生得的狂気」に憑かれた少年、と理解するなら、「鬼滅」は「トラウマ的な責任と倫理」の問題を生成し続ける異様な物語、に変貌する。そのとき「優しさ」や「家族愛」が本当は何を意味しているのかが繰り返し問われ、あるいは再定義されることになるだろう。