学中国備忘録 (中国語の学習記録です)
場所:陜西省西安市 時代:BC3世紀頃 種別:宮城 西安は、その昔長安と呼ばれ、古くは西周より唐の時代まで、11の王朝が1000年以上にわたり都...
西安は、その昔長安と呼ばれ、古くは西周より唐の時代まで、11の王朝が1000年以上にわたり都を置いた。 紀元前350年、秦の孝公は西安の北部、渭河沿いの咸陽に都を定めた。 紀元前221年に始皇帝が中国を統一し、紀元前206年に秦が滅亡するまで、咸陽は秦の国都であった。 秦が中国を統一すると、咸陽も中国全土の政治、軍事、経済、文化の中心となり、当時世界でも有数の大都会であった。 秦帝国が滅亡した紀元前206年、咸陽を攻め落とした項羽は咸陽を焼き払い、その大火は三ヵ月燃え焼けたという。
発掘調査の結果、咸陽遺跡は、東西6キロ、南北4キロあり、手工業工場や市場、祖廟、禁苑、朝宮闕観、陵墓などが分布していた。 現在、咸陽遺跡の半分は川の底に水没しているが、それでも2つの宮殿遺跡が発見されている。 1号宮殿は高床式で東西60m、南北40m、殿堂・ホール・回廊から構成され、排水設備・暖房設備も備えられていた。
始皇帝は,咸陽の宮殿が手ぜまと考え,渭水の対岸に拡張することにした。 前212年(始皇帝35)まず,前段として阿房宮をつくったと言われる。 その規模は,東西500歩(約800m),南北50丈(約150m)で,殿上には1万人を座らせることができ,殿下には5丈(約15m)の旗を立てることができたといわれる。 周囲には廊下をめぐらし,宮殿からは,南へ廊下がのびて南山の頂上に達し,そこには宮城の正門をたてた。 また,北へは,上下二重の廊下がつくられ,渭水をわたって咸陽に連絡するようになっていた。 始皇帝の1代では完成せず,始皇帝死後も工事は続けられ、二世・三世の代になっても阿房宮は未完成のままであった。 秦が滅んだとき(前206),項羽の軍に焼きはらわれた。 しかし最近の発掘調査により、焼き払われなかったという説もある。 美女を三千人集めたという阿房宮は、あまりに非常識的にでかい宮殿だったので、「阿呆」の語源と言われる。