写真:松平郷の領主は在原氏でした。そこに松平氏の始祖となる親氏が婿に入りました。徳川家康の八代前のことです。在原信重が松平太郎左衛門を名乗っていたので、婿の親氏は松平太郎左衛門の名と在原氏の家督を受継ぎ急速に勢力を拡大します。@豊田市
写真:松平郷の領主は在原氏でした。そこに松平氏の始祖となる親氏が婿に入りました。徳川家康の八代前のことです。在原信重が松平太郎左衛門を名乗っていたので、婿の親氏は松平太郎左衛門の名と在原氏の家督を受継ぎ急速に勢力を拡大します。@豊田市

写真:松平郷の領主は在原氏でした。そこに松平氏の始祖となる親氏が婿に入りました。徳川家康の八代前のことです。在原信重が松平太郎左衛門を名乗っていたので、婿の親氏は松平太郎左衛門の名と在原氏の家督を受継ぎ急速に勢力を拡大します。@豊田市

松平郷の領主は在原氏でした。そこに松平氏の始祖となる親氏が婿に入りました。徳川家康の八代前のことです。在原信重が松平太郎左衛門を名乗っていたので、婿の親氏は松平太郎左衛門の名と在原氏の家督を相続し急速に勢力を拡大します。

在原氏の墓所のある在原山への入口には、応永(1394-1428)の頃、諸国を流浪中の遊行僧、徳阿弥が信重の元に入婿し松平太郎左衛門親氏を名のって松平家発展の始祖となりました。と説明されています。

松平郷々主

在原氏の墓所

松平氏の遠祖は在原氏を称する公家で、康永年間(1342-1345)に都から三河に下り松平郷を開いたと言われています。

松平郷に住した初代は在原信盛といい、二代信重は弓馬と連歌に長け、家は栄え、富を蓄え、その名は三河一帯に広く聞こえたといわれています。

応永(1394-1428)の頃、諸国を流浪中の遊行僧、徳阿弥が信重の元に入婿し松平太郎左衛門親氏を名のって松平家発展の始祖となりました。この地には在原信盛、信重と親氏の室、水女の墓所があり在原山と呼ばれています。

豊田市教育委員会

松平太郎左衛門親氏の墓は、在原氏の墓所ではなく近くの高月院にあります。

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藪田ノ源五御退治之亊

其ノ頃藪田源五忠元トテ気質偏強二シテ喧嘩ヲ好ム若者有リ

松平近キ林添の里ニ住シ家来大勢抱ヘ置キ近辺ノ村々ヲ押領シ雅意ヲ働キ

富貴ニホコリ 剰へ(あまつさえ)親氏公ニ對シ無礼ヲ尽クス亊度々ニ及ブト雖(いえど)モ

若輩タルニ依テ免ジ置ルゝ所ニ 度重シハ 御堪忍成リ難ク

或時御人数をスグッテ御鷹野ノ体ニ出立 彼ガ屋家ニ不意ニ押掛ケラレ即刻忠元ヲ討果シ

俄(にわか)ニ騒動スル處ノ家来大形討チ

捕リ残ル奴原 諸方ヘ追散シテ松平ニ戻リ玉ヒケル

三河八代記古伝集

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