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☆富田林・喜志出身の豪商・加賀屋甚兵衛の足跡を辿る~ ☆富田林・喜志出身の江戸時代の大商人、『加賀屋甚兵衛』 ゆかりの 加賀屋緑地 《加賀屋新田会所跡...
◇加賀屋緑地は江戸時代の宝暦年間(1750年代)に大阪の両替商 加賀屋甚兵衛が開いた新田会所屋敷跡です。 市内にただ1つ残る新田会所跡で敷地面積 4823㎡の及ぶ広大な敷地です。財を惜しまずつくり上げた屋敷と庭園からなりたっています。 ◇加賀屋新田会所跡:住之江とは思えない静かな住宅地の中、立派な長屋門が目を引きます。 ◇正面の右側に加賀屋新田会所跡の石塔がたっています。 ( 大阪市住之江区南加賀屋四丁目 4-8) 加賀屋甚兵衛は、延宝八年(1680年)に富田林市に生まれました。
◇正面玄関(長屋門) ~冠木門(かぶきもん)、火災で焼失し、復元された長屋門から観覧できる。 ◇ ☆【加賀屋甚兵衛物語】では、現在の喜志町、桜井の出身と言われ甚兵衛は、元禄三年(1690年)十一歳にして大阪に出て淡路町の加賀屋嘉右衛門に仕えた。富田林市・歴史講座グループで話題となり、当時の足跡を学習するため、この地を、訪ねました。 長屋門~冠木門(かぶきもん)へ ~淡路町の両替商、加賀屋に奉公に出て、35歳で独立開業。1723年から新田開発に携わりますが、後には本業の両替商 を たたんで新田開発に打ち込むこととなります ◇冠木門の前に立つと、門から書院・玄関までの通路が真っ直ぐに伸びており、遠近法を利用して実際の距離よりも長く感じられるようにつくられている ◇冠木門には「古見堂」(こけんどう)と書かれた額が掲げられている。~新田開発が宝暦四年(1754)に代官の検地を受け、『加賀屋新田』と名付けられました。ここから「加賀屋」という地名が生まれ、今に伝えられています。 ◇宝暦四年(1754)の建築で、当時の建物がそのままのこされている。玄関よりの眺め。玄関・八畳の座敷・六畳の次の間で構成されている。 書院の入り口には『祥鐘福集』の額が掲げられている。 ◇山水の襖絵は雪舟四代目の雲谷等益の作。「愉園」中国の文人・羅振玉が書いた額がかかっている。
◇茶室 『鳳鳴亭』 ”舞台造り”飛び立とうとする鳳凰のように見えることがその名の由来という。 庭園より数奇屋風 茶室「鳳鳴亭」を望む。 池を中心とした小堀遠州風の 築山林泉回遊式 庭園。 ◇ 築山林泉回遊式庭園。(つきやまりんせんかいゆうしき)
◇〈木橋と井路〉 西池にかかる木橋。昔はこの井路(いじ・・・水路)を経て十三間、堀川へつながり、屋敷の人たちは船に乗り、さらには難波にまで続き、舟で道頓堀の芝居小屋まで遊びに出かけたそうです 。
☆この 加賀屋新田会所跡は 敷地面積、4822㎡に及ぶ広大な敷地に材を惜しまずつくり上げた屋敷と庭園からなり、当時の豪商の文化の高さや、250年むかしの豪商の暮らしがよみがえる ☆江戸時代、新田開発を財力のある豪商が請け負った新田開発。その経営拠点としての新田会所、兼 居宅を設けたのであろう。250年むかしの豪商の暮らしがよみがえる。「よくぞ街の真ん中にあれだけのものが残ってくれていたとは・・・」 参考資料⇒桜井家代々。『加賀屋甚兵衛』・桜井家系譜(敷津浦発展史)★大阪市域の1/3にもあたる新田開発を行ったという《加賀屋甚兵衛物語》を知り歴史背景と当時の足跡を学習しました。 甚兵衛 翁 が 己が生まれ故郷の 富田林市 喜志の産土神 『美具久留御魂神社』 を勧請して鎮守の神社を祀った。 高砂神社、略由緒。 〈住之江鎮守氏神〉:大阪市住之江区北島3-14-12 高砂神社・住職から由緒をお聞きする。出身地の河内国石川郡新堂村の産土神天水分大神を勧請。”♪~はや住之江に着きにけり♪~”と謡われた謡曲 「高砂」 に因み『高砂神社』と名づけられました。・・・ 郷土喜志村の産土神の天之水分大神〔美具久留御魂神社〕勧請してこの土地、永遠の榮を祈り、高崎神社として祀られました。 浄土真宗、本願寺派、『明尊寺』 (富田林、桜井) 檀家に甚兵衛の子孫の方がおられるのでは。・・・とお聞きしました。 ☆先祖代々の墳墓。甚兵衛の出身地の先祖代々の家系を新たに再発見でき、その家系の人々に辿りつくことができました。
◇加賀屋甚兵衛翁の事績を学んで、その発展的な事業を賛嘆すると共に、己が生まれ故郷の鎮守神を移し祀って、新天地を郷土の発展と見る雄大なる気象、深き信仰を尊く思う人間像に敬服されます。!!あらためて、感銘を受けます。 〔美具久留御魂神社〕 ☆神社の拝殿より東方の眺め。 神社の鳥居の向こうに、うっすらと二上山が真正面に見えます。一筋の光明が見たように思います。”加賀屋甚兵衛も川(大和川)で故郷に繋がっている、この場所への思い入れが強かったのでしょうか。・・・ ~