【大原三千院】阿弥陀三尊像が立ち上がりかけているその理由
三千院はこの世に再現された極楽浄土。三千院となったのは意外と新しく、明治4年。もともと政庁だったところが寺院となった。
この像には大きく二つの特徴がある。 サイズ 勢至菩薩、観音菩薩は阿弥陀如来の眷属(付き人)で、通常は阿弥陀如来の1/2、1/3位のサイズだが、往生極楽院の2体は大きめ。 座る姿勢 勢至菩薩、観音菩薩は通常は立像か胡坐が多い。 しかし往生極楽院の2体は”正座”している。 “正座”は正式には「大和坐り(やまとすわり)」といい、上半身を少し浮かせて前かがみの姿勢をとっている。 この姿勢は、早く信者さんを極楽浄土へお連れしようと腰を浮かしている姿といわれている。
三千院の往生極楽院 天井が船底型なのはなぜ?三千院の往生極楽院の天井は船底型になっている。 建物がこじんまりしていて、そのなかに比較的大きな阿弥陀三尊像が安置されているので、空間を確保している。 また、そこには極楽浄土を表現し菩薩などが雲に乗っているような天井画が描かれていて、天空を浮遊しているようなイメージになっているという。 現在はよく見えない。 原寸大で再現された天井と極彩色で描かれた画が寺院内にある円融蔵展示室で見ることができる。
大原三千院の大原とは
三千院のある大原は京都でも特別な雰囲気を感じる場所だ。 京都市内から離れた山奥の隠れ里のようだ。 また、大原三千院周辺にはいくつかの寺院が集まっているのも特徴の一つ。 ・勝林院(しょうりんいん) ・法泉院(ほうせんいん) ・実光院(じっこういん) ・来迎院(らいごういん)
大原にはなぜ寺院が固まっているのかそれは天台宗の比叡山延暦寺と関係がある。 大原は、比叡山延暦寺から少し北にいったところにある。
平安時代中期、藤原道長が権力をもち、源氏・平氏が台頭するなど、飢饉や戦で国は荒れていた。 その折、延暦寺の僧は俗化し、仏法守護を名目に武装し戦闘に従事するようにさえなっていた。 それに疑問を抱いた僧たちは、大原の山に移り修行に打ち込んだ。 最盛期には49もの寺院が建ったといわれる。 その中心となったのが現在の寺院群。
三千院の起こり
三千院の起源は平安時代、最澄が比叡山延暦寺を創建した時に近くに建てられた別棟。 平安後期には、皇室・貴族が住職を務める門跡寺院となった。 以降、比叡山から幾度か移転し、名前も円融房、梨本坊、梨本門跡、梶井門跡と変え、京の都で栄えた。 ところが、室町時代の1467年、応仁の乱が起こり焼失した。
寺院は京から大原に移った。 大原には、比叡山延暦寺が設置した政所があり、そこを仮御殿としたのだ(これが後の三千院になる)。 政所は、平安時代に比叡山から多くの僧が大原に移り最盛期には49もの寺院が建ったことで、比叡山が大原を統轄する目的で1156年に設置した管轄機関。
江戸時代になると京の都に戻った。 明治4年、再び大原に移転し、その時に三千院と称されるようになった。 三千院は円融房であった時の持仏堂の名で、そこからとられた。 三千院はもともと政庁だったところが寺院となったというわけだ。
三千院の庭
聚碧園(しゅうへきえん) 有清園庭園(ゆうせいえんていえん)〔瑠璃光庭〕 慈眼の庭金色不動堂、観音堂、鎌倉石仏
金色不動堂 観音堂 鎌倉石仏国宝
重要文化財
往生極楽院 往生極楽院壁画 不動明王立像 救世観音半跏像 音律 調子口伝 宮中御懺法講絵巻 ほか。
京都府指定文化財
宗派
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