東北の一大藩「仙台藩」の歴史とは?わかりやすく解説!
現在宮城県と呼ばれている地域一帯は江戸時代には仙台藩と呼ばれており、伊達政宗の子孫たちが代々受け継いでいきました。 しかし、そんな伊達家はいろいろな苦難を乗り越えていき、そして江戸時代における有数の大藩として成長していくのです。 今回はそんな仙台藩について解説していきたいと思います。 この記事の目次 伊達政宗
伊達政宗はこの少し前に会津の蘆名氏を討ち滅ぼして約120万石の広大な領土を実現していましたが、奥州仕置により会津の地域は没収。さらにその直後の行われた葛西大崎一揆に対して政宗の関与が疑われてしまい、改易にはならなかったものの、秀吉は伊達氏の本拠だった信達地方や置賜地方を取り上げてその代わりにおよそ現在の宮城県中南部に当たる部分を政宗の領土とします。そしてこの領土がいわゆる仙台藩となっていきました。
仙台藩の成立 仙台藩の外交政策こうして仙台藩が成立しましたが、太平の時代となった今でも正宗も野望はとどまることを知りません。その代表的な例が仙台藩とスペインとの太平洋貿易でした。 1613年に仙台領内でサン・ファン・バウティスタ号というどでかい帆船を建造。
当時世界最大の植民地帝国であったスペインとの貿易を行うことによって仙台藩を裕福な藩に変えようとしていたのです。また、政宗はその先にスペインとの同盟を行うことで幕府を倒そうとした説もあります。 政宗は家臣の支倉常長を外交使節に任命すると、支倉常長を中心とする慶長遣欧使節をメキシコやスペインへ派遣。
そして、幕府がオランダ以外のヨーロッパとの貿易をしなくなってしまい、政宗の野望は潰えてしまったのです。
仙台藩最初の危機
綱宗隠居事件政宗の孫であり、仙台藩3代藩主の伊達綱宗は政治を全く行わず、さらには遊郭に入り浸るほどの放蕩三昧であったため、綱宗の叔父にあたる伊達宗勝がなんとかして綱宗をちゃんとさせるために老中首座の酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴しました。しかし、それでも綱宗は行動を改めることをしなかったことでついに1660年に幕府によって幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられられてしまい、まだわずか2歳の伊達綱村が就任しました。
伊達騒動の本格化綱村が藩主になって一件落着に見えましたが、仙台藩の政治に伊達宗勝や柳川藩の立花忠茂の家臣であった奥山常辰が政治を行い権勢を振るうようになります。 しかし、権力欲に取りつかれてしまった宗勝は自分が寵愛していた目付を奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行いました。 肝心の藩主はまだ政治もわからない子供であり、宗勝はこのことを利用して仙台藩を乗っ取ろうとしていたのです。
1671年。幕府からこの騒動についての説明をするために家臣である柴田朝意が江戸に向うことに。3月7日には柴田と原田が老中板倉重矩に呼ばれでこの騒動に関する審議が行われることになりました。しかし、仙台藩を取り潰さないことはあらかじめ決められており、そのことをわざわざ隠居した綱宗や藩主の伊達綱村に送っています。
同年3月27日に2度目の審問が行われますが、今度は大老である酒井忠清によばれて幕府の重鎮が集まるなかで伊達騒動の説明を行います。 しかし、その直後に伊達騒動の混乱で原田宗輔が暗殺される事態に。こうして伊達騒動は終結に向かうことになります。
伊達騒動の顛末そのため、綱宗の行動を改めるようにした諫言書は提出されることになり、ついに1703年にはこの騒動が5代将軍徳川綱吉の耳に達し仙台藩が改易されるのではないかとされてしまいます。このため老中の稲葉正往は綱村に状況を説明し隠居を勧告。流石に伊達家が取り潰されることは敵わないとして綱村は幕府に対して隠居願いを提出してこの伊達騒動はついに終結することになります。その後綱村の跡継ぎとして従弟の伊達吉村が5代藩主となりました。