東浩紀『平和と愚かさ』
東浩紀の『平和と愚かさ』は、読み進める間ずっとわたしの胸を震わせていた。これほどの良書に久しぶりに出会ったと思う。 まったく個人的なことだけれど、2022年頃からなにも言いたくなくなってしまった。年齢的なことや、私的環境のせいもあるかもし
東浩紀の『平和と愚かさ』は、読み進める間ずっとわたしの胸を震わせていた。これほどの良書に久しぶりに出会ったと思う。 まったく個人的なことだけれど、2022年頃からなにも言いたくなくなってしまった。年齢的なことや、私的環境のせいもあるかもしれない。でもそれだけではない。一つの契機はたぶん、ウクライナ戦争だった。ロシアの侵攻が始まった時、少なくない人々と同じようにわたしは驚愕し、目を疑い、それからしばらくして、いよいよ来るべき時が来たのかと絶望した。 一番怖いのはインフレではないかと、個人的に思っていた。もちろん、世界は常に緩やかなインフレ状態にあり、それ自体は資本主義の健全性を示しているのだろう。しかし急激なインフレとは、貨幣およびそれを裏打ちしている既存システムへの信頼が揺らぐことであって、一旦失われた信用はもしかすると簡単には戻せないかもしれない。わたしたちの生が依存するシステムは、とても危ういバランスの上にかろうじて成り立っているという不安がある。だからウクライナ侵攻に端を発してインフレが始まった時、大変申し訳ないが、ウクライナでの戦争それ自体より一層恐怖を覚えてしまった。 またもちろん、多くの人々が感じる通り、台湾危機との相似性についてもすぐに考えが及んだ。これも大変身勝手な話だ。「力による現状変更」を許さないことで中国に牽制をかけたい、というのは、わたしたちの平和を守るためにウクライナは火の玉になって戦ってくれ、というのと同じことで、考えるだけで正直恥ずかしい。逆の立場だったらどうなるのか。戦争の目的はもちろん第一に自国を守ること、主権を保つことだろうが、大国に隣接し属国化の危機にあるウクライナやその他の国々のために、世界のとりあえずの秩序を守るために、戦って死ぬような覚悟があるだろうか。率直に言ってわたしにそんな根性は全然ない。 もちろん、「戦争」は2022年2月24日に唐突に始まったわけではない。2014年のクリミア併合から既にウクライナは危機にあり、「戦争状態」に突入していた。わたしのような無知な人間が、その政治軍事的意味をはかりかねないまま、遠い国のできごととしてあまりリアリティを抱いていなかっただけだ。つまりは「平和ボケ」していたということだ。 「平和ボケ」という言葉は、普通は悪い意味で使う。しかし一方で、「ボケ」こそが平和なのではないか、という直観があった。本書は驚くほど平易に、平和の「ボケ」性というか、「平和ボケ」の得難い側面を描いてくれている。平和というのは単に戦争をしていないことではなく、戦争について(一般市民が)始終考えを巡らせたりしないで済んでいる状態のことだろう。つまり「ボケ」ていられるうちが平和ということだ。
加えて言うなら、自分自身の中にも「政治的」な声があって、ひどく混乱していた。 ずっとボケていたかったのに、とんでもないことになってしまった。そう言ったら、これはこれでとても身勝手な不安だと思う。それが自覚できるから、安易に言葉を発せられなくなった。 不安から来る怒りや正義が喉元まで上がってくる。しかし同時に、そんな正義を疑い相対化することにこそ、知的な希望を抱いて自分は育ってきた。その前提が無造作に踏みにじられていく。どちらの側から語っても、ひどく薄っぺらく実のない言葉になるのではないか。あるいはもしかして、ちょっとした一言が「致命的」になるかもしれない。 自分は勇気も根性もないので、だんだんとなにも言いたくなくなっていった。
2022年以降、多くの専門家たちがテレビやYouTubeで語ってくれたおかげで、わたしたちはロシアとウクライナを巡る「地政学的」知識に多少なりとも触れる機会を得た。しかしそれ以前に、両国の関係についてざっくりとでも理解していた人がどれだけいただろうか。少なくともわたしはちっともわかっていなかった。 自分は個人的に、中東地域のごちゃごちゃとした関係については、日本人としてはかなり親しみがある。しかしロシアとその周辺国の事情については、平均的日本人と同じ程度に危うい知識しか持っていなかった。今だって本当のところは大してわかっていない。 この見通しの悪さというのも、自分の混乱の一因としてあったと思う。そう考えたところで、本書にユーゴスラヴィア紛争の話がでてきたことには、符牒めいたものを感じた。自分のような無知な人間にとって、ユーゴスラヴィア紛争は本当によくわからないごちゃごちゃしたできごとだったからだ。 個人的にユーゴスラヴィア紛争として最初に思い出すのは柴崎友香の『わたしがいなかった街で』(2012年)だ。震災後に書かれたこの小説が、直接震災を描くのではなくテレビの向こうにユーゴスラヴィア紛争を見る形で進むのは、本書第二部で取り上げられる村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』の扱うノモンハンにもオーバーラップする。 それはともかく、ユーゴスラヴィア紛争はよくわからなかった。自分はこの報道をリアルタイムで見た記憶がある。しかし湾岸戦争やイラク戦争、古くはベトナム戦争のような、よくも悪くも物語的に構図をとりやすい戦争と違って(もちろん実際には様々な側面があり、わたしたちが知っているのはメディアの作り上げた物語にすぎないのだが)、ユーゴスラヴィア紛争は各勢力が入り乱れてさっぱり全体像が掴めなかった。そこでは「虐殺」が行われているらしいこと、NATOが「空爆」しているらしいことはわかったが、誰が誰を攻めて殺しているのかもよくわからなかった。旧ユーゴスラヴィアという地域自体が多くの日本人にとってあまり馴染みがない。 だから歴史の中でのユーゴスラヴィア紛争の位置づけをざっくりと説いてくれているだけでも、ありがたかった。
第一次大戦によってかつての帝国が解体され、民族自決の理念が謳い上げられ、少数民族の権利保護が理想として掲げられた。これはポジティヴな方針ではあるが、一方で少数民族の保護は他国への介入の口実になる。ナチスドイツはドイツ系住民の保護を口実にズデーテンの割譲を要求した。 第二次世界大戦後、これらの失敗への反省から、少数民族の保護ではなく国民統合の強化がはかられるようになった。多少強引でも、ひとつの民族をひとつの土地にまとめてしまうほうが、戦争の災禍よりはマシだと考えられた。 ユーゴスラヴィアは数少ない例外として残されていたが、冷戦の終了、ソ連の崩壊によりたがが緩むと、泥沼の内戦と民族浄化へと突き進んでしまった。 結果、現在の旧ユーゴ地域は、第二次世界大戦後の東欧のように「民族整理」が進められ、隔離による平和が確立された。それは好ましいことではある。 しかし同時に、かつてあった共生の平和の記憶も忘れていない。そのことが本書では、「共生時代」であったサラエヴォ冬季五輪と内戦の記憶が一つの観光地図の中に重ね合わされていることに読み取られている。 共生と隔離はある意味では相容れないし、対概念かもしれない。しかしどちらが正しくどちらが間違っているわけでもない。わたしたちは現在、共生の平和を美化して夢想しがちだが(左派的視点)、それは基本的には隔離によって成立している平和を前提としている。一方で隔離が平和を築くとしても(右派的視点)、共生の平和が不可能なわけではないし、完全な隔離など夢物語である以上、既にわたしたちは一定程度は共生してしまっている。 隔離を叫べば左派から批判されるし、共生を言えば右派から叩かれる。隔離と共生というのは、もしかするとどちらも声高には主張されず、はっきりと意識されないことにこそ、平和があるのかもしれない。ここにも「ボケ」による平和がある。 もちろん「ボケ」が可能になった背後には、実際的な政治的営為があったに違いない。逆に、「ボケ」のためにこそ政治的奮闘があるとも言える。誰一人いつ何時も「ボケ」ていられないなら、なんのための努力だかわからない。 わたしたちは政治的に隔離や共生をはかる一方、それを忘却して平和を享受もする(この二面性は、本書後半で「客的ー裏方的二重体」という概念で説明されている)。
この下りを読みながら、わたしは時効のことを考えていた。様々な法的権利には時効が設定されている。告発や訂正が「正当」だとしても、無限の請求が可能なわけではない。 同時にまた、2010年の法改正で殺人罪の時効が廃止されたことや、動画撮影が非常に簡便になりあらゆる場所に防犯カメラが設置された社会についても考えた。つまりかつてより粘り強く徹底した「訂正」が可能になったこの世界のことだ。 言うまでもなく、これらは社会を「より良く」するためのものだし、それにより救われた人々もいれば、わたし自身も助かっていると思う。暗い道に街頭がつけば、人は安心する。 一方で過剰に記憶され忘却を許さなくなった社会が、際限のない「正義」を求め「訂正」を繰り返し、ある種の内戦へと陥っていく不安も感じる。あるいは既に、過剰記憶による内戦の中にわたしたちはいるのかもしれない。一切の暗がりがなくなった世界とは、あまりにも完全な記憶が絶え間なく人々を復讐へと駆り立てる世界なのではないか。 繰り返すけれど、告発は「正義」ではある。自分自身はそうした「正義」をむしろ信じる側だった。「忘れてくれ」というのは、強い側、多数派の側の身勝手な言い分だ。 一方で、いつまでも忘れないこともまた平和を脅かし、脅かされたと思った「強者」の側を恐怖に駆り立て、より一層の弾圧や暴力への端緒となってしまうかもしれない。いや、実際に既にそうなっているだろう。 もちろん、結論などない。ここでどちらかの側を社会の指針として取り上げ他方を捨象するのは、まさに反ー平和的な政治だろう。そうならないギリギリのところで政治は動かなければならないと思う。
本書の第一部について簡単な感想を書こうとしただけなのに、驚くほど冗長でまとまりのない文章になってしまった。少し恥ずかしい。 こんなどうでもいい記事を読むより、とにかく本書を手にとって読んで欲しい。驚くほど平易で、本を読み慣れない人や若い世代へも配慮が行き届いている。 一人でも多くの人がこの本を、せめて第一部だけでも読んで、あまりにも複雑な状況と様々な可能性について思いを巡らせ、簡単な結論に飛びつかない思慮を学び取って欲しいと、世界の片隅で願っている。
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石倉優
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- 東浩紀『平和と愚かさ』
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